26歳で始めたスキー。
まさか雪国で子育てするとは想像もしていませんでした。
雪国では小学校から学校でスキーの授業があります。
春から小学校に通う息子にスキーを教えねば…
ということで、村内に2つあるスキー場に、
できる限り親子で出かけて、練習しました。
今シーズンは雪が少なくて、スキー場は大変だったと思います。
息子はレストランでの食事が楽しみだったりするのですが。
まあなんとかボーゲンで直滑降はできるようになりました。
子どもは覚えるのが早いものだ。
つづく
まさか雪国で子育てするとは想像もしていませんでした。
雪国では小学校から学校でスキーの授業があります。
春から小学校に通う息子にスキーを教えねば…
ということで、村内に2つあるスキー場に、
できる限り親子で出かけて、練習しました。
今シーズンは雪が少なくて、スキー場は大変だったと思います。
息子はレストランでの食事が楽しみだったりするのですが。
まあなんとかボーゲンで直滑降はできるようになりました。
子どもは覚えるのが早いものだ。
つづく
4月に正月の話題ですみません。
今年もしめ縄は手作りです。
年一回だからいつまでたっても上達しません。
正月料理。
湯本ではおせちとは言わないし、
重箱にも入れません。
おせち料理の歴史も調べましたが、
大して歴史のあるものではないみたいですね。
湯本の正月料理のほうがよほど歴史がありそうです。
正月は警備の休みをもらい、埼玉の実家へ帰省しました。
実家へ行く前に、川越観光。
氷川神社は初詣の行列が長すぎてあきらめました。
川越に来たのは十数年ぶりです。
古い建物や路地も残っていますが、
個人所有の民家はやはり維持が大変そうです。
狭山?
氷川神社で敗北したので、初詣は熊野神社にしました。
八咫烏?
螢は輪投げで学業運をゲット。
夕方になったので実家へ向かいました。
川越が人気だというのはなんとなく聞いていましたが、
かなりあか抜けた観光地になっていました。
表通りは人であふれ、どこかで見たような街並みになっていますが、
一歩裏を歩くと、古い民家などが残っていて、
個人的には裏通りの散策が楽しかったです。
つづく
今年もしめ縄は手作りです。
年一回だからいつまでたっても上達しません。
正月料理。
湯本ではおせちとは言わないし、
重箱にも入れません。
おせち料理の歴史も調べましたが、
大して歴史のあるものではないみたいですね。
湯本の正月料理のほうがよほど歴史がありそうです。
正月は警備の休みをもらい、埼玉の実家へ帰省しました。
実家へ行く前に、川越観光。
氷川神社は初詣の行列が長すぎてあきらめました。
川越に来たのは十数年ぶりです。
古い建物や路地も残っていますが、
個人所有の民家はやはり維持が大変そうです。
狭山?
氷川神社で敗北したので、初詣は熊野神社にしました。
八咫烏?
螢は輪投げで学業運をゲット。
夕方になったので実家へ向かいました。
川越が人気だというのはなんとなく聞いていましたが、
かなりあか抜けた観光地になっていました。
表通りは人であふれ、どこかで見たような街並みになっていますが、
一歩裏を歩くと、古い民家などが残っていて、
個人的には裏通りの散策が楽しかったです。
つづく
まだまだ昨年の話題です。
毎年年末になるべく家族旅行に行くことにしているのですが、
昨年末はいわきへ行ってきました。
いわきへ決めた理由は、民話が好きな螢が
「いわきの「おな石ばあさん」見に行きたい!」
と言ったためです。
「おな石ばあさん物語」とは、漁に出た子どもを待ち続けた老婆が
石に変わったという物語です。
その石を見に行くだけではもったいないので、
いろいろ立ち寄ってきました。
最初に行ったのは、田人(たびと)にある「MOMO cafe」。
猫がいるおしゃれなカフェだそうです。
着きましたが、これはやっているのか…?
ひと気のないカフェは廃屋のようにも見えるし…
でも猫はいる。
着いたのが早すぎたらしく、
しばらく待っていたらオーナーが出てきました。
人がいると、廃屋と思っていた建物が
急におしゃれに見えてくるから不思議なもので…
店内もシンプルでおしゃれです。
建物自体は本当にボロくて(失礼)質素なのですが、
置いてあるものや本のチョイスにセンスを感じます。
妻と「これ、湯本でもやればできるよね」と話しました。
古い建物はあるし、立地も山の中だし。
結局は経営者のセンスしだいなんですね。
センスのある人は、場所を選ばずお客を呼べる店ができる。
自分にそういうセンスがあれば…
昼食を食べ終わるころには、店内はお客でいっぱいになっていました。
次に行ったのは勿来の関。
勿来に関所があったことは知っていましたが、
その時代とかいわれは予備知識なく行きました。
資料館もあったので見聞きしたら、
かなり古い時代に廃止された関所で、
都から遠く離れた地で、当時の貴族たちの
ロマンを掻き立てる対象だったようですね。
勉強になりました。
さて、次は螢がいちばん来たがっていた、
「おな石」に到着です。
「おな石入り口」から山に入っていきます。
想像していたより本格的な山です。
歩く靴で来ていなかった妻はこの辺りで離脱。
息子と山頂まで上がりました。
すると螢が「こわい!」と言い出し、
石に近づこうとしません。
遠くに太平洋が見えます。
遠巻きに立つ螢。
「ほんとうのおばあさんみたい!」
「もう来ない!」
なんだよ…
このままホテルへ行ってもよかったのですが、
少し時間があったので妻の希望で
閼伽井嶽(あかいだけ)薬師というところへ足を延ばしました。
いわき駅の裏手から山道を車で走ること20分ほど、
この山奥によくこれだけのものを築いたものだ、という
立派なお寺が現れました。
お堂も立派です。
多宝塔もあります。
妻は御朱印をもらい、螢はおみくじを引いていました。
泊ったのは螢が1歳の時にも泊まった「かんぽの宿いわき」です。
螢は覚えていなかったですが、
オーシャンビューや大きな浴場にあらためて喜んでいました。
2日目。
晴れました。
白い建物がかんぽの宿です。
すぐそばの海岸へやってきました。
写真を撮ったり、貝を拾ったり。
その後、小名浜へ移動し、こちらも数年ぶりにアクアマリンふくしまへ。
いろいろリニューアルされていました。
螢も興奮しながら見ていました。
いろいろ刺激を受けて、育ってもらいたいです。
この後、小名浜のイタリアンで昼食を食べ、帰路へ着きました。
次は、新年の話題かな。
つづく
毎年年末になるべく家族旅行に行くことにしているのですが、
昨年末はいわきへ行ってきました。
いわきへ決めた理由は、民話が好きな螢が
「いわきの「おな石ばあさん」見に行きたい!」
と言ったためです。
「おな石ばあさん物語」とは、漁に出た子どもを待ち続けた老婆が
石に変わったという物語です。
その石を見に行くだけではもったいないので、
いろいろ立ち寄ってきました。
最初に行ったのは、田人(たびと)にある「MOMO cafe」。
猫がいるおしゃれなカフェだそうです。
着きましたが、これはやっているのか…?
ひと気のないカフェは廃屋のようにも見えるし…
でも猫はいる。
着いたのが早すぎたらしく、
しばらく待っていたらオーナーが出てきました。
人がいると、廃屋と思っていた建物が
急におしゃれに見えてくるから不思議なもので…
店内もシンプルでおしゃれです。
建物自体は本当にボロくて(失礼)質素なのですが、
置いてあるものや本のチョイスにセンスを感じます。
妻と「これ、湯本でもやればできるよね」と話しました。
古い建物はあるし、立地も山の中だし。
結局は経営者のセンスしだいなんですね。
センスのある人は、場所を選ばずお客を呼べる店ができる。
自分にそういうセンスがあれば…
昼食を食べ終わるころには、店内はお客でいっぱいになっていました。
次に行ったのは勿来の関。
勿来に関所があったことは知っていましたが、
その時代とかいわれは予備知識なく行きました。
資料館もあったので見聞きしたら、
かなり古い時代に廃止された関所で、
都から遠く離れた地で、当時の貴族たちの
ロマンを掻き立てる対象だったようですね。
勉強になりました。
さて、次は螢がいちばん来たがっていた、
「おな石」に到着です。
「おな石入り口」から山に入っていきます。
想像していたより本格的な山です。
歩く靴で来ていなかった妻はこの辺りで離脱。
息子と山頂まで上がりました。
すると螢が「こわい!」と言い出し、
石に近づこうとしません。
遠くに太平洋が見えます。
遠巻きに立つ螢。
「ほんとうのおばあさんみたい!」
「もう来ない!」
なんだよ…
このままホテルへ行ってもよかったのですが、
少し時間があったので妻の希望で
閼伽井嶽(あかいだけ)薬師というところへ足を延ばしました。
いわき駅の裏手から山道を車で走ること20分ほど、
この山奥によくこれだけのものを築いたものだ、という
立派なお寺が現れました。
お堂も立派です。
多宝塔もあります。
妻は御朱印をもらい、螢はおみくじを引いていました。
泊ったのは螢が1歳の時にも泊まった「かんぽの宿いわき」です。
螢は覚えていなかったですが、
オーシャンビューや大きな浴場にあらためて喜んでいました。
2日目。
晴れました。
白い建物がかんぽの宿です。
すぐそばの海岸へやってきました。
写真を撮ったり、貝を拾ったり。
その後、小名浜へ移動し、こちらも数年ぶりにアクアマリンふくしまへ。
いろいろリニューアルされていました。
螢も興奮しながら見ていました。
いろいろ刺激を受けて、育ってもらいたいです。
この後、小名浜のイタリアンで昼食を食べ、帰路へ着きました。
次は、新年の話題かな。
つづく
※今回は写真は記事の内容と無関係です
前回の記事で紹介した「関係人口セミナー」の、
後半は首都圏からの参加者のみなさんと
天栄村、特に湯本地区の人たちと共同のワークショップでした。
そこでわたしが、参加者のある方から言われた
衝撃的な言葉をご紹介したいと思います。
その言葉によって、わたしの考えが一気に開かれたと同時に、
現在も続く自問自答が始まりました。
ワークショップでは、参加者がいくつかのグループに分かれ、
①村のいいところ ②村の困っているところ ③自分が村に関わりたいこと
といった3点について、意見を出していきました。
まず「村のいいところ」ですが、
湯本の場合は温泉があったり自然があったり、
住民同士の助け合い、治安のよさ、食料自給など、
たくさん挙がりました。
そして問題だったのは「村の困っているところ」です。
わたしの横に座っていた東京からの参加者の男性が、
「村の人って、何か困っていることあるんですか?」
と言ったのです。
聞いた瞬間、わたしも「この人は何を言ってるんだろう」と
思ったのですが、その方は続けます。
「食べ物は自分で作っている、環境はいい、治安もいい。
それで困っているって、よくわからないんですけど」
それを聞いて、わたしはカミナリに打たれたような衝撃を受けました。
確かにそうなんですよ。
生きるうえで必要なものはそろっています。
食料、燃料、水はある。
治安はいい。
子育てしやすい。
仕事だって通える範囲でたくさんある。
もちろんわたしも移住してきたとき、
そうした良さに気づいて定住を決めたわけですが、
なんとなく「地域は困っている」と思っていました。
でも実際に暮らしていて困ることってあまりない。
ないどころか、都会に比べたら
泥棒や不審者の心配はないし、
大災害や戦争が起きたって絶対に飢え死にしないし、
子育て・教育環境だって断然優れているし…
はっきり言って、地域は都会に比べてかなり「恵まれてる」のですよ。
でも、世間的にも「地域は困っている」っていう
イメージですよね。
わたしも「地域を何とかしなきゃ」と思って
ずっといろいろ活動をしてきたわけで…
ただ、冷静に考えると、「何」に困っているか、
ということを深く考えてこなかったのかもしれない。
その男性の発言を聞いて、それに気づいたのです。
もちろん、個人個人はさまざまな悩みを抱えて暮らしています。
ただそれは地域も都会も同じです。
地域特有の問題、と考えると、
車を持っていない人は買い物が不便だったりとか、
一人暮らしのお年寄りは雪かきが大変だったりとか、
そういうことはあります。
でもそれもご近所や親せきの人たちが手助けしたりして、
いまのところなんとかなっています。
今後も、例えばネットを利用できる人が
買い物を手助けするなど、新しい解決策も考えられます。
ではこの「なんとなく困っている」感覚の正体は何なのか。
よくよく考えていくと、おそらく、
「いまのこの困っていない暮らし、恵まれた暮らしが
人口減少によって失われるかもしれないという不安」
ということに集約できるのではないかと思うようになりました。
農業や治安維持に重要な住民同士の助け合いも、
隣近所がいなくなってはできません。
住民がいなくなれば、公共施設や行政サービスも削減されます。
つまり、「人口減少」こそがこの漠然とした不安感の源であり、
もっとも対策を講じないといけないことなのだと思うのです。
こう思ったとき、かなり自分の考えが整理できました。
都市に比べて出生率の高い、地域での人口減少は、
国全体の少子化のように自然減で起きるのではなく、
都市への人口流出によって起きています。
この人口流出の原因は、
地域が「恵まれている」にも関わらず起きていることから、
合理的に説明するのが難しく、
地域自体に問題があることよりも、
単に住民の「都会への憧れ」が
原因の大部分を占めていると思われます。
自分の考え方が他人の意見によって180度変わることなど
滅多にないことを考えれば明らかなように、
他人の趣向、志向を変えることは困難です。
都会志向の地域住民が地域の魅力を再認識して
また村に戻ってくることは、
よほどのことがない限り難しいでしょう。
(身近な知人で震災をきっかけに湯本の良さに目覚めた、
という人はいますけど、やはりとても希な例です)
それよりも大事なことは、
いま地域に暮らしている人たちに感謝し、大事にすることと、
湯本の「恵まれた暮らし」を理解した上で、
住みたいと言ってくれる仲間を作ること。
この2点なのだなと。
この中でわたしができることというのは、
湯本での「恵まれた日常」をこれまで以上に発信すること。
「仕事、なりわいを創出しないと」とか、
これまで少し自分の能力以上のことを、
できもしないのにやろうとしていたと思います。
少し原点に立ち返って、湯本のふつうの暮らしが
いかに恵まれているかを、自分を媒体として、
地域に暮らしている人たちや、
田舎暮らしに関心を持つ人たちに伝えること。
このあたりに集中していこうかと思いました。
とは言いつつ、
ほかにもこまごまとしたアイデアはあるんですけどね。
やれる範囲で、コツコツと進めたいと思います。
つづく
前回の記事で紹介した「関係人口セミナー」の、
後半は首都圏からの参加者のみなさんと
天栄村、特に湯本地区の人たちと共同のワークショップでした。
そこでわたしが、参加者のある方から言われた
衝撃的な言葉をご紹介したいと思います。
その言葉によって、わたしの考えが一気に開かれたと同時に、
現在も続く自問自答が始まりました。
ワークショップでは、参加者がいくつかのグループに分かれ、
①村のいいところ ②村の困っているところ ③自分が村に関わりたいこと
といった3点について、意見を出していきました。
まず「村のいいところ」ですが、
湯本の場合は温泉があったり自然があったり、
住民同士の助け合い、治安のよさ、食料自給など、
たくさん挙がりました。
そして問題だったのは「村の困っているところ」です。
わたしの横に座っていた東京からの参加者の男性が、
「村の人って、何か困っていることあるんですか?」
と言ったのです。
聞いた瞬間、わたしも「この人は何を言ってるんだろう」と
思ったのですが、その方は続けます。
「食べ物は自分で作っている、環境はいい、治安もいい。
それで困っているって、よくわからないんですけど」
それを聞いて、わたしはカミナリに打たれたような衝撃を受けました。
確かにそうなんですよ。
生きるうえで必要なものはそろっています。
食料、燃料、水はある。
治安はいい。
子育てしやすい。
仕事だって通える範囲でたくさんある。
もちろんわたしも移住してきたとき、
そうした良さに気づいて定住を決めたわけですが、
なんとなく「地域は困っている」と思っていました。
でも実際に暮らしていて困ることってあまりない。
ないどころか、都会に比べたら
泥棒や不審者の心配はないし、
大災害や戦争が起きたって絶対に飢え死にしないし、
子育て・教育環境だって断然優れているし…
はっきり言って、地域は都会に比べてかなり「恵まれてる」のですよ。
でも、世間的にも「地域は困っている」っていう
イメージですよね。
わたしも「地域を何とかしなきゃ」と思って
ずっといろいろ活動をしてきたわけで…
ただ、冷静に考えると、「何」に困っているか、
ということを深く考えてこなかったのかもしれない。
その男性の発言を聞いて、それに気づいたのです。
もちろん、個人個人はさまざまな悩みを抱えて暮らしています。
ただそれは地域も都会も同じです。
地域特有の問題、と考えると、
車を持っていない人は買い物が不便だったりとか、
一人暮らしのお年寄りは雪かきが大変だったりとか、
そういうことはあります。
でもそれもご近所や親せきの人たちが手助けしたりして、
いまのところなんとかなっています。
今後も、例えばネットを利用できる人が
買い物を手助けするなど、新しい解決策も考えられます。
ではこの「なんとなく困っている」感覚の正体は何なのか。
よくよく考えていくと、おそらく、
「いまのこの困っていない暮らし、恵まれた暮らしが
人口減少によって失われるかもしれないという不安」
ということに集約できるのではないかと思うようになりました。
農業や治安維持に重要な住民同士の助け合いも、
隣近所がいなくなってはできません。
住民がいなくなれば、公共施設や行政サービスも削減されます。
つまり、「人口減少」こそがこの漠然とした不安感の源であり、
もっとも対策を講じないといけないことなのだと思うのです。
こう思ったとき、かなり自分の考えが整理できました。
都市に比べて出生率の高い、地域での人口減少は、
国全体の少子化のように自然減で起きるのではなく、
都市への人口流出によって起きています。
この人口流出の原因は、
地域が「恵まれている」にも関わらず起きていることから、
合理的に説明するのが難しく、
地域自体に問題があることよりも、
単に住民の「都会への憧れ」が
原因の大部分を占めていると思われます。
自分の考え方が他人の意見によって180度変わることなど
滅多にないことを考えれば明らかなように、
他人の趣向、志向を変えることは困難です。
都会志向の地域住民が地域の魅力を再認識して
また村に戻ってくることは、
よほどのことがない限り難しいでしょう。
(身近な知人で震災をきっかけに湯本の良さに目覚めた、
という人はいますけど、やはりとても希な例です)
それよりも大事なことは、
いま地域に暮らしている人たちに感謝し、大事にすることと、
湯本の「恵まれた暮らし」を理解した上で、
住みたいと言ってくれる仲間を作ること。
この2点なのだなと。
この中でわたしができることというのは、
湯本での「恵まれた日常」をこれまで以上に発信すること。
「仕事、なりわいを創出しないと」とか、
これまで少し自分の能力以上のことを、
できもしないのにやろうとしていたと思います。
少し原点に立ち返って、湯本のふつうの暮らしが
いかに恵まれているかを、自分を媒体として、
地域に暮らしている人たちや、
田舎暮らしに関心を持つ人たちに伝えること。
このあたりに集中していこうかと思いました。
とは言いつつ、
ほかにもこまごまとしたアイデアはあるんですけどね。
やれる範囲で、コツコツと進めたいと思います。
つづく
昨年の、しかも秋の話になってしまって恐縮です。
11月22日から23日にかけて、
村主催の一風変わったツアーが開催され、
そこでお話しする機会をいただきました。
「関係人口ツアー」というものです。
1日目の22日は「関係人口セミナー」でした。
「関係人口」という概念を提唱している一人、
田中輝美先生の講演と、湯本での取り組みの発表、
その後、首都圏からの参加者のみなさんと
ワークショップ形式の勉強会でした。
「関係人口」という言葉は少し前から知っていましたが、
どういうものかということまでは知りませんでした。
まずは田中先生の講演で勉強しました。
まさにわたしです。
団地ではなかったですが、ベッドタウン育ち。
父は大阪、母は東京。
田舎とのつながりはほとんどありませんでした。
これも納得です。
地域では否が応でも「個人」が埋没せずに表出します。
自分のしたことの反響がすぐについてくる。
よくも悪くもですが。
この2枚のスライドを見てふと思ったのですが、
現在のSNSブームで指摘される「承認欲求」の盛り上がりが、
実はこの辺りに根源があるのではないかと。
わが子が地域で育つようすを見ていると、
実の親はどうしても叱ったりすることが多くなりますが、
近所の大人やお年寄りからは、
注意を受けることもありますが、
褒められることが圧倒的に多いんですよね。
おそらく数十年前の社会では、
子どもはこうやってご近所や、同居の祖父母から
たくさん褒められながら育ったのだと思うのです。
そうすることで、叱られることと褒められることの
バランスが取れていたのではないでしょうか。
いっぽう現代は核家族の時代です。
満たされない承認欲求の発露が、
SNSブームを支えているのではないでしょうか。
そして、地域にはまだ生きた人間関係が残っています。
SNSにハマる若者ほど、地域で何か活動することを通じて
感化されることが多いのではないでしょうか。
ある意味「自分に欠けた部分を満たす」という
自己満足や自己実現的な、利己的な行動のようなものなので、
地域からは「なんでそんなものに付き合わなきゃならないんだ」
という意見もありそうです。
しかし、若者の自己実現のエネルギーを
地域課題解決に「利用」できると考えたら、
メリットに換えることができるかもしれない。
無意識的とはいえ「承認欲求を満たしたい」という
利己的な動機だったとしても、
「地域の役に立ちたい」という思いを
無駄にするのはもったいないですよね。
そして若者の中で地域への関心が高まっていても、
なかなかどう関わっていけばよいのかわからない。
少し前までは観光客として「交流」するか、
「移住」するかの二者択一だったので、
もっと地域と積極的に「関係」できる概念を作ろう、
というのが「関係人口」なのだそうです。
地域としても、交流人口を増やすためのツアーを開催すると、
どうしても「おもてなし」に尽くしてしまいがちです。
それが一過性だとすると、地域の持続性にはあまり貢献しないうえに、
そのうちにおもてなし疲れしてしまいます。
それが極端な話、関係人口の人たちに
交流人口や移住定住を促進するためにどうしたらいいか
一緒に考え、行動してもらうことだって、
やりようによっては可能なわけです。
このツアーを終えた後、
地域の同世代の人たちとやっている「湯本塾」でも、
この関係人口を取り込んでいこうという方針が出てきて、
みなの士気が高まっています。
そして湯本塾で議論していく中で、
関係人口の概念と企業のCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会貢献)
との相性がよいということがわかってきました。
地域で何か活動するときには、
どうしてもマンパワーと財源が問題になってきますが、
それを乗り越えることが、関係人口とCSRで
可能になるのではないかと感じています。
わたしも10年前はよそ者だったんですが…
これからは新たなよそ者の力を募って、
持続可能な地域づくりに貢献していきたいと思っています。
ところでこの後のワークショップを通じて
個人的にはとても大きいと感じた「気づき」があったのですが、
長くなったので次回の記事にしたいと思います。
つづく
11月22日から23日にかけて、
村主催の一風変わったツアーが開催され、
そこでお話しする機会をいただきました。
「関係人口ツアー」というものです。
1日目の22日は「関係人口セミナー」でした。
「関係人口」という概念を提唱している一人、
田中輝美先生の講演と、湯本での取り組みの発表、
その後、首都圏からの参加者のみなさんと
ワークショップ形式の勉強会でした。
「関係人口」という言葉は少し前から知っていましたが、
どういうものかということまでは知りませんでした。
まずは田中先生の講演で勉強しました。
まさにわたしです。
団地ではなかったですが、ベッドタウン育ち。
父は大阪、母は東京。
田舎とのつながりはほとんどありませんでした。
これも納得です。
地域では否が応でも「個人」が埋没せずに表出します。
自分のしたことの反響がすぐについてくる。
よくも悪くもですが。
この2枚のスライドを見てふと思ったのですが、
現在のSNSブームで指摘される「承認欲求」の盛り上がりが、
実はこの辺りに根源があるのではないかと。
わが子が地域で育つようすを見ていると、
実の親はどうしても叱ったりすることが多くなりますが、
近所の大人やお年寄りからは、
注意を受けることもありますが、
褒められることが圧倒的に多いんですよね。
おそらく数十年前の社会では、
子どもはこうやってご近所や、同居の祖父母から
たくさん褒められながら育ったのだと思うのです。
そうすることで、叱られることと褒められることの
バランスが取れていたのではないでしょうか。
いっぽう現代は核家族の時代です。
満たされない承認欲求の発露が、
SNSブームを支えているのではないでしょうか。
そして、地域にはまだ生きた人間関係が残っています。
SNSにハマる若者ほど、地域で何か活動することを通じて
感化されることが多いのではないでしょうか。
ある意味「自分に欠けた部分を満たす」という
自己満足や自己実現的な、利己的な行動のようなものなので、
地域からは「なんでそんなものに付き合わなきゃならないんだ」
という意見もありそうです。
しかし、若者の自己実現のエネルギーを
地域課題解決に「利用」できると考えたら、
メリットに換えることができるかもしれない。
無意識的とはいえ「承認欲求を満たしたい」という
利己的な動機だったとしても、
「地域の役に立ちたい」という思いを
無駄にするのはもったいないですよね。
そして若者の中で地域への関心が高まっていても、
なかなかどう関わっていけばよいのかわからない。
少し前までは観光客として「交流」するか、
「移住」するかの二者択一だったので、
もっと地域と積極的に「関係」できる概念を作ろう、
というのが「関係人口」なのだそうです。
地域としても、交流人口を増やすためのツアーを開催すると、
どうしても「おもてなし」に尽くしてしまいがちです。
それが一過性だとすると、地域の持続性にはあまり貢献しないうえに、
そのうちにおもてなし疲れしてしまいます。
それが極端な話、関係人口の人たちに
交流人口や移住定住を促進するためにどうしたらいいか
一緒に考え、行動してもらうことだって、
やりようによっては可能なわけです。
このツアーを終えた後、
地域の同世代の人たちとやっている「湯本塾」でも、
この関係人口を取り込んでいこうという方針が出てきて、
みなの士気が高まっています。
そして湯本塾で議論していく中で、
関係人口の概念と企業のCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会貢献)
との相性がよいということがわかってきました。
地域で何か活動するときには、
どうしてもマンパワーと財源が問題になってきますが、
それを乗り越えることが、関係人口とCSRで
可能になるのではないかと感じています。
わたしも10年前はよそ者だったんですが…
これからは新たなよそ者の力を募って、
持続可能な地域づくりに貢献していきたいと思っています。
ところでこの後のワークショップを通じて
個人的にはとても大きいと感じた「気づき」があったのですが、
長くなったので次回の記事にしたいと思います。
つづく
4月8日は息子の入学式でした。
湯本小学校の新入生は螢一人。
一人というだけでも珍しいうえに、
父親が首都圏からの移住者だということで、
福島民友新聞の記者さんが取材してくれました。
↓クリックで拡大します
人数が少なすぎて不安でないと言ったら嘘になりますが、
きちんと自分の意見を言ったり、
率先して自ら行動することができたりする
いまの湯本の小学生・中学生を見れば
螢も大丈夫だろうと思います。
子どもたちがそれを証明してくれています。
当然と言えば当然なんですよね。
人数が少ないから毎日日直・週番のようなものですし、
行事があれば司会や開会・閉会の言葉を言うし、
まわりは上級生や下級生、教職員のみなさんのほうが多いですし。
世代の違う人たちとの接し方が身に付くし、
必ず役に付くので度胸と責任感が身に付くし。
授業は個別指導ですし。
こんなにいい環境で子育てができて、わたしは本当に幸せ者です。
↓クリックで拡大します
実は5月には、やはりこの湯本の教育環境がすばらしいということで、
首都圏から親子が湯本集落へ移住してきます。
螢としても下級生ができるので、
本当にこれはうれしいことなのですが。
こうした流れが続いて、
湯本の環境が持続的になるよう、
わたしも公私ともに協力していきたいと思っています。
つづく
湯本小学校の新入生は螢一人。
一人というだけでも珍しいうえに、
父親が首都圏からの移住者だということで、
福島民友新聞の記者さんが取材してくれました。
↓クリックで拡大します
人数が少なすぎて不安でないと言ったら嘘になりますが、
きちんと自分の意見を言ったり、
率先して自ら行動することができたりする
いまの湯本の小学生・中学生を見れば
螢も大丈夫だろうと思います。
子どもたちがそれを証明してくれています。
当然と言えば当然なんですよね。
人数が少ないから毎日日直・週番のようなものですし、
行事があれば司会や開会・閉会の言葉を言うし、
まわりは上級生や下級生、教職員のみなさんのほうが多いですし。
世代の違う人たちとの接し方が身に付くし、
必ず役に付くので度胸と責任感が身に付くし。
授業は個別指導ですし。
こんなにいい環境で子育てができて、わたしは本当に幸せ者です。
↓クリックで拡大します
実は5月には、やはりこの湯本の教育環境がすばらしいということで、
首都圏から親子が湯本集落へ移住してきます。
螢としても下級生ができるので、
本当にこれはうれしいことなのですが。
こうした流れが続いて、
湯本の環境が持続的になるよう、
わたしも公私ともに協力していきたいと思っています。
つづく
まあずいぶんブログを放置しました。
この冬から春は天候が微妙でしたよね。
そのせいか気分が沈みがちで…
仕事は郵便局、警備、写真館(卒業アルバム)、
水道の検針などいつものルーティン。
それだけで日常が過ぎ去っていく感じです。
とにかく警備一人体制に郵便局勤務というのは
厳しいですね。
ゆうパックなどは夜間配達依頼もけっこうあるのですが、
夜は警備が入っているのでそれはできず、
結局あまり役に立たず。
「こんなはずじゃなかった」と思われていることでしょう。
実は3/30で湯本に移住して10年になりました。
この日もふつうに郵便配達していましたが。
本来であれば記念すべき日なのかもしれませんが、
そういう気持ちにはなれなかったですね。
10年前、仕事を辞めて、しかもリーマンショックで
仕事がなく、半分やけくそで移住してきた湯本。
住み始めて山村のすばらしさに触れ、
地域をなんとかしたいと奮闘したその後。
まあ結果は若者の流出でわが子の同級生もいない状況。
結局自分は何かできたのか。
いてもいなくても変わらなかったのでは。
前の職場を辞めたときと同じような感想です。
心が腐ってるんですよね。
腐ってる暇があったら状況を好転するように
何か動き出せよと。
わかっているんですけど、なかなか。
そんな状況で藁をもつかむ思いで、
2月に宮城県に出かけました。
そこで仙台の恩師と話をしたり、
川崎町というところで自分より10歳も若い人たちが
山村で新しいプロジェクトを立ち上げている
現場を見てきたりしました。
これがなかなか刺激的で、
また後日記事にしようと思っているのですが、
そこで「星さん、もったいないです!」と
いろいろな人から言われました。
「これからも川崎に来て教えてください!」と。
このところ、「やってくれる人がいないのでお願い」
という仕事ばかりやっていたので、
久しぶりに自分のやってきたことが評価されて、
純粋にうれしかったです。
湯本にいると、
これまで結果がついてこなかったせいもあるのですが、
最近はまったく頼りにされないんですよね。
家族からも、地域の人たちからも。
「期待してないから」と言われる。
これがいちばん堪えるんですよね…
自分も単純なので、嘘でも「期待してる」と言われれば
調子に乗ってモチベーションが上がるんですよ。
だから、これからはモチベーションを得るために
積極的に地域外に出て行こうと思っています。
そのためには仕事に余裕ができないといけないですが、
ちょうど4月から警備が二人体制に戻ります。
これで週1日はきちんとした休みができ、
二人で融通して連休を取ることもできます。
それから、昨年地域であった動きの中で、
地域活動の資金を獲得するアイデアが
出てきて、これを活用できないかと、
自分としても検討しているところです。
たとえば地熱活用ハウスも現状維持ではじり貧なので、
増棟、障がい者雇用促進のために、
資金を調達できないかなとか。
アイデアはあるんです。
仕事の掛け持ちで収入も比較的安定しました
(といっても月15万円ほどですが)。
あとはモチベーションの問題なのです。
4月になり仕事の休みが取れるようになりました。
1か月ほどかけて、モチベーションの回復に
努めたいと思います。
次の10年後は、少しでも状況が好転しているといいなあ。
つづく
この冬から春は天候が微妙でしたよね。
そのせいか気分が沈みがちで…
仕事は郵便局、警備、写真館(卒業アルバム)、
水道の検針などいつものルーティン。
それだけで日常が過ぎ去っていく感じです。
とにかく警備一人体制に郵便局勤務というのは
厳しいですね。
ゆうパックなどは夜間配達依頼もけっこうあるのですが、
夜は警備が入っているのでそれはできず、
結局あまり役に立たず。
「こんなはずじゃなかった」と思われていることでしょう。
実は3/30で湯本に移住して10年になりました。
この日もふつうに郵便配達していましたが。
本来であれば記念すべき日なのかもしれませんが、
そういう気持ちにはなれなかったですね。
10年前、仕事を辞めて、しかもリーマンショックで
仕事がなく、半分やけくそで移住してきた湯本。
住み始めて山村のすばらしさに触れ、
地域をなんとかしたいと奮闘したその後。
まあ結果は若者の流出でわが子の同級生もいない状況。
結局自分は何かできたのか。
いてもいなくても変わらなかったのでは。
前の職場を辞めたときと同じような感想です。
心が腐ってるんですよね。
腐ってる暇があったら状況を好転するように
何か動き出せよと。
わかっているんですけど、なかなか。
そんな状況で藁をもつかむ思いで、
2月に宮城県に出かけました。
そこで仙台の恩師と話をしたり、
川崎町というところで自分より10歳も若い人たちが
山村で新しいプロジェクトを立ち上げている
現場を見てきたりしました。
これがなかなか刺激的で、
また後日記事にしようと思っているのですが、
そこで「星さん、もったいないです!」と
いろいろな人から言われました。
「これからも川崎に来て教えてください!」と。
このところ、「やってくれる人がいないのでお願い」
という仕事ばかりやっていたので、
久しぶりに自分のやってきたことが評価されて、
純粋にうれしかったです。
湯本にいると、
これまで結果がついてこなかったせいもあるのですが、
最近はまったく頼りにされないんですよね。
家族からも、地域の人たちからも。
「期待してないから」と言われる。
これがいちばん堪えるんですよね…
自分も単純なので、嘘でも「期待してる」と言われれば
調子に乗ってモチベーションが上がるんですよ。
だから、これからはモチベーションを得るために
積極的に地域外に出て行こうと思っています。
そのためには仕事に余裕ができないといけないですが、
ちょうど4月から警備が二人体制に戻ります。
これで週1日はきちんとした休みができ、
二人で融通して連休を取ることもできます。
それから、昨年地域であった動きの中で、
地域活動の資金を獲得するアイデアが
出てきて、これを活用できないかと、
自分としても検討しているところです。
たとえば地熱活用ハウスも現状維持ではじり貧なので、
増棟、障がい者雇用促進のために、
資金を調達できないかなとか。
アイデアはあるんです。
仕事の掛け持ちで収入も比較的安定しました
(といっても月15万円ほどですが)。
あとはモチベーションの問題なのです。
4月になり仕事の休みが取れるようになりました。
1か月ほどかけて、モチベーションの回復に
努めたいと思います。
次の10年後は、少しでも状況が好転しているといいなあ。
つづく
急に毛色の違う話題になって恐縮なのですが。
わたしは小学生のころ(30年前)から「道路マニア」、
とくに「インターチェンジマニア」を自認していました。
たまたま父が持っていた道路地図に、国道254号線の英インターや
首都高速の江戸橋インター(当時はジャンクションとは呼ばなかった)の
航空写真が載っていて、その機能美に魅了されたのです。
いまでこそ、昔からあった「古道」や「旧道」趣味だけでなく、
「険道」(険しい県道)や「酷道」(酷い国道)などの
新しいことばも生まれ、ネットの普及とともに
「道路趣味」自体が市民権を得てきた感があります。
ただ、子どものころは周囲に同じ興味を持つ人などおらず、
「我ながら変わった趣味だ」と思っていました。
図書館に行っては市の都市計画図を閲覧して、
「この妙に幅の広い道は、将来国道のバイパスにつながるんだ」とか、
「ここに新しく高速道路ができるんだ」とか、興奮していました。
「首都高のイカの耳」というものがあるのですが
(説明が長くなるので興味のある方はネットで検索してください)、
その存在にも子どものころ気づいていて
(当時はまだそんな呼び名はなかった)、
中央環状線が板橋から江北までつながったときに
そのイカの耳が活用されて、「スゲェ!」と興奮したものです。
まあその興味の中で、実家に近い場所にある
「美女木ジャンクション」が今回の話題です。
美女木ジャンクションは道路好きの間では
有名すぎるくらい有名なジャンクションで、
国道17号新大宮バイパスと、併設の首都高5号線、
東京外環道(国道298号と高速)の交差点です。
地上と高架がそれぞれ立体交差するため、
「全国初の5層構造のジャンクション」といわれ、
また首都高と外環自動車道の交差には
高速の交差としては異例の信号機による十字路が
設置されるなど、完成時にはたいへん注目されました。
わたしは小学2年のときにそこそこの大病をして、
月に一度、浦和の自宅から板橋の大学病院へ通院していたのですが、
そのとき父の運転する車の助手席から、
この美女木ジャンクションができていくサマを
見続けることができました。
そして完成が近づいたころ、たいへん失望したのです。
「なんだこの貧相なジャンクションは」と。
(建設に携わった人には失礼ですが、
小学生(当時)のことですのでご容赦ください)
それはなぜかというと、美女木ジャンクションには
高速道路のジャンクションの形で一般的な、
クローバー型のランプウェイを持つジャンクションが
設置されるものと思っていたからです。
それも勝手な思い込みではなく、
子どもなりに根拠がありました。
それは、下の図の矢印の部分です。
新大宮バイパスに並行する市道に、
不自然なカーブがあります。
このようなカーブは、本線から分岐するランプウェイの
土盛りや橋脚をよけるために作られることが多いです。
とくにこの並行する道は、新大宮バイパスに伴う
周囲の区画整理によって作られたということが
想像されたので、なおのこと小学生は
「きっとここにはカッコいいジャンクションができる!」
と確信していたのです。
当時の想像はこんな感じ。
そのため、美女木ジャンクションは当初の計画から
構造を大幅に変更して建設されたのだと考えるようになりました。
理由は言うまでもなく、周囲の市街化です。
いかにコンパクトなジャンクションにするか、
という方向に変更され、それが5層構造という
変則的なジャンクションになったのだろう。
そう考えた小学生なのでした。
その後、道路趣味が一般化するとともに、
「美女木ジャンクション」でネットを検索すると、
膨大な情報が手に入ります。
しかし、だれもこの「幻の美女木ジャンクション」を
語る人がいない。
そこで、ここ数年、子どものころの仮説を立証しようと
コソコソと調べていました。
でも核心に迫るような資料は手に入りません。
数十年前の首都高や外環道の計画の資料など、
どうすれば手に入るのか。
そこで古い航空写真を漁ってみました。
1960年代の美女木付近の写真です。
中央を南北に曲がりながら走る道がある以外は
幹線道路などはない田園風景が広がっていたようです。
それが1970年代になると
新大宮バイパスが開通し、周囲の区画整理も行なわれました。
以前あった道路はズタズタになっています。
そして、件のバイパスに並行する市道は、
やはりこの時期に作られていました。
区画整理なのだから、もしランプウェイの計画がないのであれば、
まっすぐでよいはずのところに、わざわざカーブがあります。
外環道の部分も空き地が続いていて、
用地買収されていることがわかります。
そして現在。
何事もなかったかのように、十字路型のジャンクションがあります。
航空写真の比較でわかったことは、
やはりバイパスに並行した市道は、
バイパス建設と同時期に区画整理で造られた道で、
わざわざカーブを作る理由があったのだろう、
ということまででした。
まあ福島にいながら埼玉のことを詳しく調べるのも難しいし、
わざわざこのことだけのために埼玉へ行くのも無理だしなあ、
と思っていたら、Twitterで情報が手に入りました。
クニヒロ@JOBAN_EXPWYという方から、
このような新聞記事を提供していただきました。
1993年5月31日の朝日新聞の記事だそうです。
記事の中で、
「1985年の都市計画決定時には用地買収は難しいとの判断から、
クローバー形立体交差を断念。上の首都高と下の外環道との間に
十字型の連絡路を設け、平面交差にすることになった。」
とあります。
やはり当初はクローバー形の計画があったということです。
ただ、これが並行する市道のカーブと
関係するのかどうかまではわかりませんが、
小学生当時考えていた
「美女木にはクローバー形のジャンクションが計画されていた」
というのは間違いではなかったのです。
30年越しでそれがわかっただけでよかったです。
こういう道路への興味が、
湯本のトロッコ道探索や旧蝉峠の探索、
天栄村内の伊能忠敬日記から当時の村の
植生の記述発見等へ繋がるわけで、
人間何が役に立つかなんてわからないものです。
福島県内でも変な道を発見しているのですが、
これを掘り下げると黒歴史が見えてきたりして、
記事にしようかどうしようか迷っていたりもするのですが…
つづく
わたしは小学生のころ(30年前)から「道路マニア」、
とくに「インターチェンジマニア」を自認していました。
たまたま父が持っていた道路地図に、国道254号線の英インターや
首都高速の江戸橋インター(当時はジャンクションとは呼ばなかった)の
航空写真が載っていて、その機能美に魅了されたのです。
いまでこそ、昔からあった「古道」や「旧道」趣味だけでなく、
「険道」(険しい県道)や「酷道」(酷い国道)などの
新しいことばも生まれ、ネットの普及とともに
「道路趣味」自体が市民権を得てきた感があります。
ただ、子どものころは周囲に同じ興味を持つ人などおらず、
「我ながら変わった趣味だ」と思っていました。
図書館に行っては市の都市計画図を閲覧して、
「この妙に幅の広い道は、将来国道のバイパスにつながるんだ」とか、
「ここに新しく高速道路ができるんだ」とか、興奮していました。
「首都高のイカの耳」というものがあるのですが
(説明が長くなるので興味のある方はネットで検索してください)、
その存在にも子どものころ気づいていて
(当時はまだそんな呼び名はなかった)、
中央環状線が板橋から江北までつながったときに
そのイカの耳が活用されて、「スゲェ!」と興奮したものです。
まあその興味の中で、実家に近い場所にある
「美女木ジャンクション」が今回の話題です。
美女木ジャンクションは道路好きの間では
有名すぎるくらい有名なジャンクションで、
国道17号新大宮バイパスと、併設の首都高5号線、
東京外環道(国道298号と高速)の交差点です。
地上と高架がそれぞれ立体交差するため、
「全国初の5層構造のジャンクション」といわれ、
また首都高と外環自動車道の交差には
高速の交差としては異例の信号機による十字路が
設置されるなど、完成時にはたいへん注目されました。
わたしは小学2年のときにそこそこの大病をして、
月に一度、浦和の自宅から板橋の大学病院へ通院していたのですが、
そのとき父の運転する車の助手席から、
この美女木ジャンクションができていくサマを
見続けることができました。
そして完成が近づいたころ、たいへん失望したのです。
「なんだこの貧相なジャンクションは」と。
(建設に携わった人には失礼ですが、
小学生(当時)のことですのでご容赦ください)
それはなぜかというと、美女木ジャンクションには
高速道路のジャンクションの形で一般的な、
クローバー型のランプウェイを持つジャンクションが
設置されるものと思っていたからです。
それも勝手な思い込みではなく、
子どもなりに根拠がありました。
それは、下の図の矢印の部分です。
新大宮バイパスに並行する市道に、
不自然なカーブがあります。
このようなカーブは、本線から分岐するランプウェイの
土盛りや橋脚をよけるために作られることが多いです。
とくにこの並行する道は、新大宮バイパスに伴う
周囲の区画整理によって作られたということが
想像されたので、なおのこと小学生は
「きっとここにはカッコいいジャンクションができる!」
と確信していたのです。
当時の想像はこんな感じ。
そのため、美女木ジャンクションは当初の計画から
構造を大幅に変更して建設されたのだと考えるようになりました。
理由は言うまでもなく、周囲の市街化です。
いかにコンパクトなジャンクションにするか、
という方向に変更され、それが5層構造という
変則的なジャンクションになったのだろう。
そう考えた小学生なのでした。
その後、道路趣味が一般化するとともに、
「美女木ジャンクション」でネットを検索すると、
膨大な情報が手に入ります。
しかし、だれもこの「幻の美女木ジャンクション」を
語る人がいない。
そこで、ここ数年、子どものころの仮説を立証しようと
コソコソと調べていました。
でも核心に迫るような資料は手に入りません。
数十年前の首都高や外環道の計画の資料など、
どうすれば手に入るのか。
そこで古い航空写真を漁ってみました。
1960年代の美女木付近の写真です。
中央を南北に曲がりながら走る道がある以外は
幹線道路などはない田園風景が広がっていたようです。
それが1970年代になると
新大宮バイパスが開通し、周囲の区画整理も行なわれました。
以前あった道路はズタズタになっています。
そして、件のバイパスに並行する市道は、
やはりこの時期に作られていました。
区画整理なのだから、もしランプウェイの計画がないのであれば、
まっすぐでよいはずのところに、わざわざカーブがあります。
外環道の部分も空き地が続いていて、
用地買収されていることがわかります。
そして現在。
何事もなかったかのように、十字路型のジャンクションがあります。
航空写真の比較でわかったことは、
やはりバイパスに並行した市道は、
バイパス建設と同時期に区画整理で造られた道で、
わざわざカーブを作る理由があったのだろう、
ということまででした。
まあ福島にいながら埼玉のことを詳しく調べるのも難しいし、
わざわざこのことだけのために埼玉へ行くのも無理だしなあ、
と思っていたら、Twitterで情報が手に入りました。
クニヒロ@JOBAN_EXPWYという方から、
このような新聞記事を提供していただきました。
1993年5月31日の朝日新聞の記事だそうです。
記事の中で、
「1985年の都市計画決定時には用地買収は難しいとの判断から、
クローバー形立体交差を断念。上の首都高と下の外環道との間に
十字型の連絡路を設け、平面交差にすることになった。」
とあります。
やはり当初はクローバー形の計画があったということです。
ただ、これが並行する市道のカーブと
関係するのかどうかまではわかりませんが、
小学生当時考えていた
「美女木にはクローバー形のジャンクションが計画されていた」
というのは間違いではなかったのです。
30年越しでそれがわかっただけでよかったです。
こういう道路への興味が、
湯本のトロッコ道探索や旧蝉峠の探索、
天栄村内の伊能忠敬日記から当時の村の
植生の記述発見等へ繋がるわけで、
人間何が役に立つかなんてわからないものです。
福島県内でも変な道を発見しているのですが、
これを掘り下げると黒歴史が見えてきたりして、
記事にしようかどうしようか迷っていたりもするのですが…
つづく
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